第3話 開幕
門をくぐって、一人の少女とその従者が衛宮邸の敷地内に入ってきた。
少女の名は、遠坂凛。穂群原学園に通うイリヤスフィールの後輩であり、士郎の同級生であり、冬木市の霊地を代々に渡って管理してきた遠坂家の現当主でもある。
「衛宮、先輩……?!」
イリヤスフィールの姿を見つけるなり、凛は戸惑ったような声を上げて立ち止まった。
「遠坂さん、か……」
と、口の中で呟いたイリヤスフィールは、凛とその従者に対し油断無い視線を向ける。イリヤスフィールと凛の関係は、もはや学校の先輩後輩などではなかった。互いにサーヴァントを連れたマスター同士。それは即ち、殺し殺される間柄を意味する。気を許してよい道理など無かった。
「こんな時間に何の用なのかしら、遠坂さん?」
「えーっと、その……」
しかし、なぜか凛は言葉に詰まってしまって、なかなか応答できない。
「凛……。ここは、きちんと自分の立場を明確に主張すべきではないのかね?」
そう進言するのは、赤い外套を纏った凜のサーヴァント。どうやら、主よりも従者の方が、よほど冷静に状況を把握しているようだった。
だから、イリヤスフィールは思い切ってサーヴァントの方に声を掛けてみた。
「あなた、クラスは?」
「……アーチャーだ」
見た目の印象と変わらぬ無愛想さで、凛のサーヴァント――アーチャーは返答した。
弓兵のクラスとは言うものの、一見した限りでは、弓を携えている様子はない。だが、戦闘時にだけ武器を取り出すとか、セイバーのように不可視の武器であるといった可能性も否定できない。サーヴァントの能力とは、その外見から単純に推し量り切れない要素が多分に含まれているものなのだ。
「アーチャー、ね。……で、どうしてあなたたちはここへ来たのかしら? 返答次第では、熱烈歓迎も辞さないけれど?」
と言いつつ、満面の笑みでアーチャーを見澄ますイリヤスフィール。
その笑顔に何か感じるところでもあったのか、アーチャーは必死の形相で凜の服を引っ張った。
「り、凛……!」
「何よ、うるさいわね。自分のことは自分でなさい」
「そ、そうではない!」
「じゃあ、何よ?」
「君は敵地に踏み込んでいるんだぞ! つまりは、キルゾーンの真っ直中だ! それなのに、自分の世界に浸って考え事とは、一体どういうつもりなのかね!?」
「どうもこうも――」と言いかけて、ようやく凛は自分を見つめる三人分――イリヤスフィール、士郎、そしてセイバー――の冷ややかな、というか、むしろ生温い視線に気がついた。
「な、何よ? 膨大な魔力の反応を検知したから、様子を見に来たんじゃない。冬木の管理者として当然の行為でしょ? それの何がいけないっていうのよ!」
「逆ギレはみっともないから止めたまえ」
そう言ってアーチャーが凛を窘めるが、大した効果は期待できそうになかった。
「マスター……」
いつの間にかイリヤスフィールの隣にやって来ていたセイバーが、声を低めて耳打ちする。
「なぁに、セイバー?」
「このような問答など無意味です。サーヴァントもマスターも、我々にとっては打倒すべき敵に過ぎないのですから」
その言葉にいち早く反応したのは、アーチャーだった。
「ふん、相変わらず好戦的なことだな」
そう言い放って、アーチャーが皮肉めいた笑みを刻む。
しかし、投げかけられた言葉の意味がわからないセイバーは、訝しげな視線を返すのみ。
「どうしますか、マスター?」
視線をアーチャーに固定したまま、セイバーは命令を待つ。
「……そうね。打倒すべき敵に過ぎない、という意見には全面的な賛成はしかねるけれど。でも、ただお引き取り願うというのも芸がないわね……。あなたの力を見せてあげなさい、セイバー」
嫣然と微笑むイリヤスフィールの意図を察して、セイバーも意地の悪い笑みで応える。
「承知しました、マスター」
そう言うが早いか、セイバーは駆け出していた。
「なっ……!?」
驚くアーチャーに一瞬で肉薄し、セイバーは不可視の剣を横薙ぎに振るった。
アーチャーは白と黒の双剣でセイバーの斬撃を阻もうとした――が、それは失敗に終わった。
セイバーが放った一撃の重みは、アーチャーの予想を超えていた。構えた双剣もろともアーチャーは十数メートルほど後方へと吹き飛ばされ、そのまま無様に地面を転がった。迎撃するどころの話ではない。圧倒的なまでの力の差がそこにはあった。
「そんな、馬鹿な……」
自らの身に起きたことが信じられないという表情を浮かべて、アーチャーは呆然とセイバーを見上げる。
その気持ちは、マスターである凛も同じだった。
「嘘、でしょ……」
目の前の可憐な少女に一撃で吹き飛ばされ、未だに尻餅をついたままなのが、自分のサーヴァントであるとは認めたくない。そんな気持ちがたった一語の中に滲んでいた。
「さて。目は覚めたかしら、遠坂さん?」
ふと響いた言葉に顔を上げると、イリヤスフィールが真っ直ぐに凛を見澄ましていた。その傍らには士郎がいて、更に二人を守るようにしてセイバーが不可視の剣を構えていた。
「……とっくに覚めてたわよ」
「減らず口が叩けるのなら、心配はいらないわね」
そう言うと、イリヤスフィールは凛に背を向け、セイバーと士郎の方へ振り返った。
「疲れちゃったから、お茶にしようか」
「よ、よろしいのですか?」
おずおずと訊ねるセイバー。
「構わないわよ。こんな寒い戸外にずっと突っ立ってたら、身体に良くないわ」
「了解です、マスター」
「士郎。お茶の用意、お願いしちゃっていい?」
「任せとけって」
頷く二人と共に、イリヤスフィールは縁側から居間にあがる。
その背後では、凛とアーチャーが放心したように立ち尽くしていた。
◇
「――で、少しは落ち着いた?」
「おかげさまで」
そう応えて、凛が空っぽになった湯飲みを置く。
「でも、衛宮先輩が魔術師だったなんて、初めて知りました。しかも、マスターとしてセイバーを召喚しただなんて……」
どこか恨みがましい響きを伴って聞こえてきた科白に、イリヤスフィールと士郎は顔を見合わせた。
「……おかしいわね。ちゃんと話は通ってると思ってたのに」
「……だよなぁ。この分だと、俺のことも伝わってないのかな」
そう言って小首を傾げる二人に、凜は怪訝そうな顔を向けた。
「どういうことです?」
「あー、もしかして、管理者に断り無く居着きやがって、この礼儀知らずが――とか思ってるんだったら、違うわよ」
「だって――」と言い募ろうとした凛を遮って、イリヤスフィールは話の続きを始める。
「十年前から、わたしたちはこの屋敷で暮らしているんだけど、ここへ落ち着くって決めたときに、父が教会の司祭様にちゃんと話を通して、必要な手続きも一通り済ませているんだから」
「教会って、冬木教会?」
「えぇ、そうよ。だって、あそこの司祭様が管理者代行だったでしょ」
イリヤスフィールがそう答えると、凛はますます難しい顔になる。
「遠坂さんが何を悩んでいるのか知らないけど、教会の司祭様に確認すれば、ハッキリすることじゃないのかしら?」
「それもそうね……」と呟いて、凛はすっくと立ち上がった。
「それに、マスターになったのなら、申告が必要よね……。行きましょう。今回の聖杯戦争の監督役のところへ」
◇
夜道を行くのは、四人。イリヤスフィール、セイバー、士郎、そして引率役の凛、という顔ぶれだ。アーチャーは霊体化しているため、その姿は見えない。同じサーヴァントであるセイバーはというと、込み入った事情があって霊体化することができないため、イリヤスフィールのお古のデニムパンツと長袖Tシャツにコートという出で立ちであった。どうしようもなく地味な組み合わせの筈なのだが、セイバーが着ると印象が一変する。本人は頑として認めようとしなかったが、やはり彼女はとんでもなく美人なのである。
ちなみに、本来であればマスターではない士郎までもが教会へ行く必要はないのだが、ランサーとの一件があった直後でもあり、イリヤスフィールは敢えて同行させることにした。
目の届かないところに置いておいたら、何が起きるか予測がつかない。それならば、多少のリスクを背負ってでも、一緒にいる方がいい。つまりは、そういうことであった。
深山町から新都の外れにある冬木教会までは、歩いて行くには遠い道のりである。普通なら、新都駅前までバスを利用するところなのだが、間もなく日付が変わろうかという時間ともなれば、とうに最終便は出てしまっている。それに加えて、冷え切った夜の静寂が時間をより長く感じさせた。
そんな長い道のりを、四人は殆ど無言で過ごした。言葉を交わすことがあったとしても、取り留めのない会話に終始した。今夜は冷えるね、とか、明日の天気はどうかな、とか、本当にどうでもいいような、当たり障りのない話題に限られた。
もしかしたら、無意識のうちに聖杯戦争について話すことを避けていたのかもしれない。
聖杯戦争とは、端的に言ってしまえば、七人の魔術師同士の殺し合いである。その厳然たる事実を思えば、既にサーヴァントを召喚したマスター同士は、経過はどうあれ、最終的には敵対すべき関係に他ならない。
もし聖杯戦争に言及すれば、その現実を否応なく認識せざるを得ない。彼女たちは、それを回避しようとしていただけなのかもしれなかった。
結局、どれだけ歩いたのだろうか。
「着いたわ」
凛が淡々とした口調で、冬木教会までの奇妙な道行きに終わりを告げた。
宵闇に浮かぶ白壁の礼拝堂が、一行の目前に迫っていた。
「久しぶりに来るわね。父の葬式以来かしら」
感慨深げなイリヤスフィールの呟きに、士郎も頷く。
「そうだな」
「……行くわよ。ここの司祭が、聖杯戦争の監督役なの」
そう言って礼拝堂の扉に手を掛ける凛の背後で、アーチャーが実体化する。見上げるばかりの長身に加え、褐色の肌と白髪。改めて見ると、随分と人目を引く容姿であることに気づかされる。
「凜。私は外敵に備えてここで待機する。何かあれば、ラインを通じて呼びかけてくれ」
そう告げるアーチャーに対抗するつもりなのか、セイバーも足を止めた。
「私もここで待っています、マスター」
「俺もセイバーと一緒に待ってるよ」と、士郎。
「わかった。……それじゃ、ちょっと行ってくるわね」
そう告げて、イリヤスフィールは凛と共に礼拝堂の扉をくぐった。
◇
「ようこそ、冬木教会へ」
穏やかな笑みを浮かべた老司祭が、イリヤスフィールと凛を出迎えた。
司祭の名は、言峰璃正。
第三次および第四次聖杯戦争における監督役であり、その実績を買われて今次聖杯戦争において三度目の監督役を引き受けることになった老司祭は、自らの過去を覆い隠すかのような好々爺然とした態度で、イリヤスフィールと凛に向き合っていた。
「言峰司祭。七人目のマスターを連れてきたんだけれど……」
「わざわざご苦労様。……そうか、イリヤちゃんが七人目でしたか」
級友以外でイリヤスフィールのことを『イリヤちゃん』などと気安く呼ぶ人間は、そう多くない。せいぜい藤村大河くらいなものである。
そういった意味でも、言峰司祭はイリヤスフィールにとって見知らぬ他人などではなかった。
「お久しぶりです、司祭様」
「こちらこそ、ご無沙汰しておりましたな。士郎君も元気ですか?」
「はい。おかげさまで」
「それにしても、切嗣さんが逝かれて、はや五年ですか」
「はい。月日が経つのは早いと実感します」
「しかし、イリヤちゃんがマスターに選ばれるとは、何か因縁めいたものを感じますな」
「わたしも同感です。でも、これが運命なのかもしれませんね」
「そうですな。まさに運命。……しかし、その運命の歯車はいささか性急に回っておるような気もしますな。よもや前回の聖杯戦争から僅か十年で、このような事態を迎えるとは思いもしませんでした」
「わたしもです」
イリヤスフィールと言峰司祭の間で交わされる会話を、凛はどこか釈然としない面持ちで眺めていた。二人が当たり前のように言葉を交わしていることに、どうしても納得がいかなかったのだ。
やがて、苛立ちを隠しきれない態度のまま、凛が口を挟んだ。
「二人は知り合いなの?」
「凛には言ってなかったかな。イリヤちゃんのお父さん――衛宮切嗣氏が、この地に住み着くことになった際に、色々と必要な事務手続きをおこなったのが私でね。その時以来の知り合いということになるかな」
「ま、父はフリーランスの魔術師だったから、色々とややこしい問題も抱えていてね。教会と協会の両方に顔が利く司祭様でなかったら、きっと届け出ようとも思わなかったでしょうね」
「……モグリじゃなかったんだ」
「だから、そうだって言ったじゃない」
そんな二人のやりとりを見ていた言峰司祭は、何かを思い出そうとするかのように、おとがいへと手をやった。
「ふむ……。凛が十六歳になったときに渡した引継ぎ資料、覚えているかな」
「も、勿論よ……」
何故か、言い淀む凛。
「ということは、その全てに目を通してくれているということだね?」
「……いや、その、えっと、あまりに沢山あったから、後でもいいかなぁなんて」
「で、今に至るまで手付かずになっているということかな?」
「あは、あはは……」
力無く笑いながら、凛が頬を掻く。
「まぁ、どうせ冬木には遠坂と間桐の血統しかいないと思うておったのだろう?」
「う゛……」
「いかんぞ、管理者がそのようなことでは」
「……ごめんなさい」
しおらしく頭を下げる凛を一瞥してから、イリヤスフィールは言峰司祭に向き直った。こんな時間に、こんなところまで足を運んだのは、世間話をするためではない。
「司祭様……」
「うむ。衛宮イリヤスフィール、あなたを最後のマスターとして認める。戦う意思はあるかね?」
当然だ。聖杯戦争への参加表明をするために、わざわざここまで来たのだ。
だから、答えは決まっていた。
「Ja!」
「よろしい。それでは、ここに聖杯戦争の開幕を宣言する。各自が己の信念に従い、思う存分競い合われよ!」
◇
時系列を少し遡る。
教会の外でイリヤスフィールと凜を待つ士郎、セイバー、アーチャーの三人の間には、何とも微妙な緊張が漂っていた。特に、士郎は居心地の悪い時間を過ごしていた。セイバーは、貴方のことは私が護りますから、と言ってくれたが、二人のサーヴァントと共にいて心が安まる筈がない。何しろ、つい数時間ほど前に別のサーヴァントに殺されかけたばかりなのだから。
――こんなことなら、姉さんについて行けばよかったかもな。
変に気を回しすぎたことを士郎が後悔しはじめた頃合いを見計らったように、沈黙を破ってアーチャーが声を掛けてきた。
「衛宮士郎。ひとつ確認しておきたいことがある」
「何だよ」
アーチャーに対する警戒心を解くことなく、士郎は応えた。
セイバーが警護してくれているとはいえ、相手はサーヴァントである。決して油断はできない。
「では訊くが、貴様はマスターではないのか?」
「みたいだな。セイバーが七体目のサーヴァントらしいし、令呪の兆しも無いしな」
「ふむ。それともう一つ。……貴様は『正義の味方』を目指しているか?」
その問い掛けに、士郎は呆然とアーチャーを見上げた。
「何だよ、それ?」
反射的に口をついて出た士郎の言葉に、アーチャーが眉をひそめる。
「……『正義の味方』になりたいと思っていないのか?」
「どうして、俺が『正義の味方』を目指さなきゃいけないんだよ」
「なん、だと……。貴様は他人の幸せを願ってはいないのか?」
「そりゃ、確かに、俺は多くの人に幸せになってもらいたいと思ってる。困っている人が目の前にいたら、手を差し伸べることに躊躇はない。それは、あの大火事で唯一人生き残った俺の使命だとも思うから――」
「ふん。それが『正義の味方』でなくて、何だというのだ?」
「……死んだ親父が言ってたけど、『正義の味方』ってのは、九を助けるために一を犠牲にするような人間のことを言うんだろう?」
「あ、あぁ……」
「じゃあ、俺には無理だ」
「どういうことだ、衛宮士郎?」
「だって、俺には大切な人がいる。姉さんや、藤ねぇ、桜。一成や美綴だって、そうだ。そんな身近な大切な人たちを、たとえより多くの人を助けるためだとしたって、切り捨てるなんてことができるわけないじゃないか」
「……では、質問を変えよう。この冬木に危機的な状況が発生すると仮定する。冬木市民の圧倒的大多数が犠牲になるような非常事態が、だ。そのような危機に直面したとき、貴様ならどうする?」
自分で言っておきながら意地悪い質問だなと、アーチャーは思った。
そして、返ってくるであろう答えの内容を思い浮かべてみる。おそらく、誰も彼もを助けようとして、分不相応な悪足掻きをするのだ。それが、誰一人助けられない悲劇の道だとも知らずに――。
「そんなの決まってる。俺の大切な人たちを真っ先に助ける。それで余裕があれば、他の人たちの手助けをするさ」
「え……?」
今、何と言った?
「だから、大切な人を助けるために頑張るって言ったつもりだけど?」
「大切な人さえ助けられれば、それで貴様は満足なのか?」
つい詰るような口調になってしまうアーチャー。
しかし、対する士郎は困惑気味の表情を浮かべるばかりだった。
「そりゃあ、困っている人をみんな助けられれば理想的だろうけどさ。そんな神様みたいなことが人間にできるわけも無いんだし。それに、あれもこれもと欲張ったりしたら、結局どれも手に入れられませんでした――なんてことにもなりかねないしな。だから、まず自分が生き残る。そして、自分にとって大切な人を守る。それができなければ、他の大勢の人たちを助けることだって無理だと思うんだ」
「む……」
「それに、そういう困っている人や苦しんでいる人を助けようとする人間が自分から『正義の味方』を名乗るのは、何だか違う気がするんだよな。何かをやった結果として、他人からそう呼ばれることはあるのかもしれないけどさ。少なくとも、自分から正義って言葉を口にするのはどうかと思うんだ。胡散臭く感じられるっていうかさ。だから、きっと俺がなりたいのは『正義の味方』じゃないんだよ」
士郎の言葉に、アーチャーは酷いショックを受けていた。
馬鹿な!
この『衛宮士郎』は、どうしてこんなことを言うのだ!?
アーチャーの思考は混乱し、その方向性を見失いそうになる。
何故だ?
何が違う?
この『衛宮士郎』の何処が違うというのだ?
目まぐるしく回転する思考の末に、アーチャーはひとつの答えを見つけた。
――イリヤスフィール、か!
衛宮切嗣の実の娘であり、士郎にとっては一歳上の義姉にあたる人物。
彼女の存在以外に、明確な差異は見出せない。しかし、たったひとりの人間がいるかいないかというだけで、こうも違ってくるものなのか?
答えの出ない問題を抱えたまま呆然と立ち尽くすアーチャーに、セイバーが非難の言葉を投げかける。
「アーチャー。貴方はいったい何を考えている? さっきから黙って聞いていれば、随分と不躾な質問ばかり。貴方は、もう少し慎みを覚えるべきだ」
しかし、アーチャーからは何の返答も反駁も無かった。
そこには、ただ煤けた赤い背中があるだけだった。
◇
「――ところで、二人に紹介しておきたい人物がいるんだが」
言峰司祭がそう切り出すのを待ちかねていたように、礼拝堂の片隅で動く人影があった。
「こんばんは」と挨拶する声は、明らかに少女のそれだった。
少女は悠然とした足取りでイリヤスフィールと凛の方へ歩いてくる。
その姿を目にして、イリヤスフィールは驚愕した。
何故なら、あまりにも自分自身の幼い頃にそっくりだったから……。
「まさか――」
「その、まさかよ」
意味ありげな微笑を浮かべて、少女は言った。
「初めまして。わたしは、ヒルデガルト・フォン・アインツベルン。長いから、ヒルダ、で結構よ」
「アインツベルンですって!?」
凛が声を荒げる。
無理もない。アインツベルンといえば、冬木の聖杯戦争の立役者たる御三家の一角をなす魔道の名門である。過去四度の聖杯戦争の全てにマスターを送り込んできていたことは、今更言うまでもないだろう。聖杯獲得こそが、彼らアインツベルンの宿願なのだから。
そして、第五次聖杯戦争におけるアインツベルンのマスターは、どうやらこの幼い少女であるらしかった。
「あなたが、アインツベルンのマスターなのね?」
「その通りよ、イリヤスフィール。あなたが使い物にならなくなったから、急遽用立てられたのが、このわたしというわけ。その意味、あなたならわかるでしょう?」
「どういうことですか、衛宮先輩?」
ヒルダの愉しげな表情と、凛の探るような眼差しに挟まれ、イリヤスフィールは溜息をついた。
「まぁ、隠していても仕方のないことだし、司祭様も知っていることだからね」と前置きして、イリヤスフィールは重い口を開いた。
「わたしの昔の名前は、イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。衛宮切嗣とアイリスフィール・フォン・アインツベルンの間に生まれた、ホムンクルスなの」
「な……!?」
凛が息を呑み、そして絶句する。
「ふふ……。随分とナイーブなのね、トオサカの後継者は」
そう言って嗤うヒルダの声が、やけに耳に残った。
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