第2話 召喚
聖杯戦争とは、広義には、聖杯の所有権を巡って行われる競争行為全般を指す。
冬木市を舞台に過去四度にわたって行われてきた聖杯戦争は、他に類を見ない特殊なシステムを採用している点で極めて特徴的な魔術儀式と言えるだろうが、それでも聖杯を巡る争いであることに変わりはない。
冬木の聖杯戦争では、聖杯によって選ばれた七人の魔術師がそれぞれサーヴァントを召喚して互いに殺し合い、最後に残った一組の魔術師とサーヴァントが聖杯を手にすることができるとされている。
これは、結果的に大失敗に終わった第一次聖杯戦争(厳密に言えば、この時点ではまだ『聖杯戦争』という呼称ではなかった)の反省に基づいて定められたルールに基づいたものだ。
しかしながら、過去四度に渡って行われた冬木の聖杯戦争において、明確な勝者――すなわち聖杯を手にした者は一人もいない。
もっとも、視点を変えてみれば、誰一人として勝者が出ていないからこそ、聖杯戦争が四度も繰り返されてきたと言うべきなのかもしれないが。
そして、前回――第四次聖杯戦争においては、最終局面において聖杯発動の一歩手前の段階にまで進んだものの、最後まで残ったマスターとサーヴァントによって聖杯が破壊されてしまったため、聖杯を手にした者はいないまま『儀式』が終了していた。
その第四次聖杯戦争から十年後の今、ついに冬木における五度目の聖杯戦争が幕を開けようとしていた。
■■■
その日、衛宮士郎は弓道場の後片付けの当番だった。
穂群原学園の弓道場は、学校の体育設備としては過剰なくらいに立派な造りになっている。その充実ぶりゆえに、休日に市民を対象とした弓道教室が開かれるほどであった。
そうは言っても学園の施設であることには変わりなく、弓道場の整理整頓と掃除は、弓道部員が持ち回りで担当することになっていた。
道場の掃除と用具の整理整頓を終え、弓道場に鍵を掛けて下校しようとした士郎は、突然聞こえてきた物音に足を止めた。
校庭の方から断続的に聞こえる、金属がぶつかるような甲高い音。
「何だろう……」
そっと音のする方向を窺った士郎は、想像を絶する光景に息を呑んだ。
闘い。
そう、それは闘いだった。
青い装束を身に纏った男が鋭く槍を突き出し、赤い外套を着た男が手にした双剣で迎撃する。激しい打ち合いが、まさに目にも止まらぬ速度で展開されている。そして、それが何合も何十合も続いていく。とても人間業ではあり得ない。
――サーヴァント、か!?
自らの思い至った可能性に、士郎は慄然とした。
かつて、今は亡き義父が語ってくれた聖杯戦争のあらまし。そこで重要な位置を占めるサーヴァントという存在。それは、聖杯の力によって伝説上の英雄の成れの果て――英霊を召喚し、使役するのだという。
だとすると、今まさに穂群原学園の校庭で繰り広げられている戦闘こそ、そうしたサーヴァント同士の闘いに違いない。
姉は言った。聖杯戦争が始まろうとしている、と。
ならば、この町の何処かで、こうした闘いが行われているとしても何らおかしくはない。
そのことは頭では理解していたつもりだったし、覚悟もできていたつもりだった。だが、いざ目の当たりにしてみると足が竦む。口が渇き、舌が痺れてくる。耳は良く聞こえないし、目の焦点も定まらない。
必死に心を落ち着けて、周囲の様子を確かめてみれば、戦場との距離は僅か二百メートルほどしかない。人外同士の戦闘から身を守るには、あまりにも心許ない隔たりだ。
そんなことを思っていると、途端に殺気が膨れあがった。青い男が手にした赤い槍から放たれる禍々しいまでの呪いじみた殺気。
「!!」
このままでは、赤い男は殺される。士郎はそう直感したが、どうしようもなかった。赤い男の背後に誰かが立っていたような気がしたが、それ以上確認するつもりにはなれなかった。
何よりも、まずこの場から脱しなければならない。
本能が鳴らす警鐘に従って、士郎は戦略的撤退を開始することにした。
そっと静かに後退し、夜の学園から脱出するのだ。
しかし、その試みは呆気なく失敗した。恐怖に竦んだ足が思うとおりに動かず、物音を立ててしまったのだ。
「誰だ!!」
青い男が素早く反応し、槍の穂先を赤い男から音のした方――すなわち、士郎のいる弓道場へ向けて翻す。
「ちっ、目撃者か。厄介なことになっちまったな……」
舌打ちすると、男は地を蹴った。
その様子を確かめる前に、士郎は走り出していた。
逃げるしかない!
人気の絶えた校門を脇目もふらずに駆け抜け、自宅に向かって一目散に走る。
きっと、おそらく、間違いなく、男は追ってくるだろう。だが、足を止める訳には行かない。一瞬でも止まれば、それは死に直結するという確信があった。
だから、士郎はガムシャラに走った。
魔術で自身の身体を強化し、運動能力を極限まで引き上げることも忘れない。それでもサーヴァントから逃げ切れる自信など何処にもありはしなかった。けれども、家に着きさえすれば何とかなるのではないかという気持ちだけを支えにして、自らの限界を乗り越えた。
そうして、ついに自宅まで辿り着いた。士郎は玄関を突っ切ると、靴を脱ぐ習慣さえも忘れて、明かりのついていた居間に飛び込んだ。
「――――――」
「……どうしたの、士郎?」
暴風の如く駆け込んできた士郎に、イリヤスフィールは思わず目を瞠った。
全身から滝のような汗をかき、肩で大きく息をしている。身体全体が酸欠に喘いで、大きく揺れていた。おまけに、靴は履いたままだ。
「何があったの?」
答えられるわけがないと理解しつつも、イリヤスフィールはそう訊ねずにはいられなかった。
「は、あ………は、さ、あ………」
士郎は何か喋ろうとしたが、言葉にならず、がっくりと床に膝を突く。強化の魔術を行使した反動で、体力が払底してしまっていた。魔術によって一時的に身体能力を引き上げるということは、良いこと尽くめではない。魔術の基本は等価交換。能力を向上させるということは、その分だけ肉体に過度の負荷を強いるということに他ならない。当然のことながら、大なり小なり、反動は避けられないのである。
「士郎、しっかり」
イリヤスフィールは士郎の背中をさすりながら、治癒魔術を施そうとして魔術回路を開いた。
と、そのとき、屋敷に張られていた結界が反応した。
ガランガランガラン……
大きな鐘のような音が鳴り、害意ある侵入者の存在を告げる。
間近に感じられる桁外れの殺意を感じて、イリヤスフィールは無意識のうちに身構えていた。
そして、何気なく見上げた天井を擦り抜けて一人の男が降りてくる瞬間を目撃して、イリヤスフィールは思わず息を呑んだ。
「!!」
赤い魔槍を携えた青い装束の男。その全身にはルーンの守りが刻まれていた。
「よう、坊主。いい逃げっぷりだったぜ。だが、それも終わり。オレたちの闘いを見てしまった以上、大人しく死んでもらうしかねぇんだ。……覚悟しな」
男はイリヤスフィールを押し退け、息が上がったままの士郎に気安い口調で話しかける。そして、余裕たっぷりに槍を構えた。
何をしようとしているのかは、一目瞭然だった。
だが、それを黙って見過ごすわけにはいかない。弟が目前で殺されようとしているのに、それを容認できるはずがなかった。侵入者が聖杯戦争におけるサーヴァントであり、人の身で太刀打ちできる相手でないことはわかっている。けれど、イリヤスフィールにとって、それは士郎を見殺しにする理由にはならなかった。
だから、意を決して男の後ろ姿を見据えると、イリヤスフィールは精一杯の大声を発した。
「ちょっと待ちなさい!」
「慌てるなよ、嬢ちゃん。コイツを殺したら、きちっと後を追わせてやるからよ」
と、男は振り向きもせずに言った。
その不遜な態度に、イリヤスフィールは恐れよりも先に怒りを感じた。
「待ちなさいと言っているのが判らないの? ランサー!」
二度目の呼び掛けに、男はようやく動きを止めた。
「……何故、その名を知っている?」
険しい表情で問いつめてくる男――ランサーに、イリヤスフィールは小さく肩をすくめてみせる。
「これ見よがしに槍を携えているサーヴァントを見て、それが槍兵のクラスに該当すると推測するのは、それほどおかしなことではないと思うけど」
「そこまで知っているということは、一般人ってワケじゃなさそうだな……」
「そういうことよ。どうせ、聖杯戦争を目撃した一般人は消すようにとか何とかって、マスターから命令されているんでしょうけど。……まぁ、目撃者を殺すことによって神秘を隠匿するというのは、如何にも魔術師然とした思考回路ではあるんだけれど。今回に限って言うなら、その必要は無いわ」
「……どういう意味だ、嬢ちゃん? ……まさか!?」
そう言うと、ランサーは幾分か殺気を孕んだ瞳でイリヤスフィールを見澄ました。
イリヤスフィールは言った。「その、まさかよ」と。
「ここでバテてるわたしの弟は魔術師なの。勿論、わたしもね」
「だが、それだけじゃ――」
「そう、それだけでは殺さない理由には足りないかもしれない。けれども、わたしはマスターとして聖杯戦争に参加する予定の魔術師で、そろそろサーヴァントを召喚しようと思ってたところなの。どうせ殺り合うなら、貴方だってサーヴァント相手の方がいいんじゃないかしら?」
イリヤスフィールの言葉に、ランサーの表情が変わる。
「なるほど。『こっち側』の人間――しかも、敵ってわけか……」
それは、まるで狩るべき獲物を捉えた野獣のようだった。猛々しさを隠しきれない凄惨な笑みと、相手を値踏みするような冷徹な眼差し。それらが等分に入り混じった複雑な顔をして、ランサーは士郎に突き付けていた槍をゆっくりと引き戻してゆく。
「……サーヴァントを召喚するってのは、本当なんだろうな?」
念を押すランサーに、イリヤスフィールは首肯した。
「無論よ。それとも、貴方はサーヴァントを相手に闘うより、無力な魔術師を一方的にいたぶる方がお好みだったかしら?」
揶揄するようにイリヤスフィールが言うと、ランサーは顔をしかめた。
「見損なわないでくれ。オレはそこまで落ちぶれてねぇ。サーヴァントを喚ぶってんなら、待っていてやる。とっとと始めな」
「ありがとう、ランサー」
ランサーに対して優雅に一礼してから、イリヤスフィールは士郎を連れて庭に出た。
そのまま土蔵に向かい、重い扉を開けて中に入る。
「こんなところで……何するつもりなんだ……姉さん?」
ようやく少しばかり体力の回復した士郎が、訝しげな表情のまま、イリヤスフィールの横顔を見つめていた。
「さっき言った通りよ。サーヴァントを召喚するわ。士郎はここにいて」
そう言って、イリヤスフィールは士郎の袖を引いた。
「……わかった」
ぶっきらぼうながらも、士郎は頷く。
抱きしめたい衝動を抑えて、イリヤスフィールは士郎に背を向けた。そして、土蔵の中央部へと歩み寄り、そっと床を撫でる。うっすらと積もった埃の下に、父・衛宮切嗣が残した召喚陣がある。イリヤスフィールは左手を強く握りしめ、自らの血を召喚陣に滴らせた。魔力の籠もった血を受けて、召喚陣が淡い輝きを放ち始める。
「よし……」
実際にやってみるまでは不安があったが、この召喚陣は確かに起動する。問題はないと言い聞かせ、イリヤスフィールは立ち上がった。
あとは、サーヴァントを喚び出すだけだ。
「――告げる!
汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に!
聖杯の寄る辺に従い、この意、この理に従うのなら、応えよ――!」
本来であれば、こんな略式ではなく、正式な呪文を用いて召喚の儀式を執り行うべきなのだろうが、既にサーヴァントに襲われてしまっている現状では、あまり悠長なことは言っていられない。今はただ呪文の詠唱を続けるのみ。
「――誓いを此処に!
今こそ来たれ、天秤の守り手よ!
この命運、汝が剣に預けよう……!」
その瞬間、土蔵の中に光が溢れ、風が吹き荒れた。
溢れ出した光は程なくして召喚陣上に凝集し、少し小柄な人の形を成してゆく。
やがて風が止み、土蔵は静謐で荘厳な空気で満たされた。
「サーヴァント、セイバー。召喚に応じ、参上した」
淡々とした口調ながらも凛とした声の主は、蒼い衣の上に白銀の鎧を纏った見目麗しい少女だった。
「――問おう。貴女が私のマスターか?」
セイバーと名乗った少女は、イリヤスフィールを真っ直ぐに見つめて、そう問うた。
金糸のような髪。白磁のような肌。聖緑の瞳。それ自体が芸術品ではないかと思えるほど、セイバーは美しかった。それは、同性のイリヤスフィールでも魅入られそうになるほどだった。
が、いつまでも呆けているわけにもいかない。気を取り直して、イリヤスフィールはセイバーの問いに応えた。
「……如何にも。わたしがあなたのマスターよ」
セイバーはこくりと頷いて、イリヤスフィールの左手の甲に目を向けた。いつの間にか、そこには幾何学的な形状の痣が浮かんでいた。
「その令呪がマスターである何よりの証。これより我が剣は貴女と共にあり、貴女の運命は私と共にある。ここに契約は完了した」
厳かに誓いの言葉を告げるセイバーは、そっと何かを探るように目を閉じた。
「あぁ、確かにマスターとの強い繋がりを感じます。これなら存分に戦えそうだ」
感嘆の声と共にセイバーが寄せる大きな信頼は、霊脈を通じてイリヤスフィールにもひしひしと伝わってきた。しかし、今は感傷に浸っている時ではない。
「セイバー。召喚したばかりで申し訳ないんだけど、外に敵のサーヴァントが来ているの。撃退をお願いできるかしら」
「心得ました、マスター」
力強く頷いて、セイバーは土蔵の外へ足を踏み出した。
◇
土蔵の外に広がる衛宮邸の庭では、ランサーがサーヴァントの登場を今や遅しと待ち構えていた。
膨大な魔力の奔流を感知して、ランサーは顔を上げた。
程なくして土蔵から飛び出してくるセイバーの姿を認めると、ランサーはにやりと笑って魔槍を構え直す。
「待ちかねたぜ、セイバー!」
「何故、私がセイバーと判る?」
「マスターの命令で、偵察を兼ねて、これまでに五人のサーヴァントと手合わせしてきたんでね。残るサーヴァントのクラスが『セイバー』だというのは、判っていて当然だ」
「なるほど。そう言う貴方はわかりやすいな、ランサー」
「放っとけ! そんなことより、お前の力を見せて貰おうか、セイバー! そのために、オレはわざわざ待っていたんだからな!」
言うが早いか、ランサーの槍が一閃する。
中段の構えから繰り出される突きは、まさに神速。急所を狙って的確に撃ち出される必殺の一撃。
対するセイバーは武器らしい武器も持たずに庭に佇んでいた。
その立ち姿は絵になるほど美しく、であるがゆえに、彼女が戦いに臨んでいることを忘れているのではないかという懸念をイリヤスフィールや士郎に抱かせた。
しかし、その心配は杞憂に過ぎなかった。
キィン……
迫る穂先を不可視の武器でことごとく打ち払うと、セイバーは静かに腰を落とし、反撃へと移行する体勢を取った。
「行くぞ、ランサー!」
言うが早いか、セイバーは地を蹴った。
見る者に重力の存在を忘れさせるほどの速度でセイバーは疾駆し、ランサーに肉薄する。
「くッ……」
間合いに入られまいとして、ランサーが後退する。が、それを許さぬ速度でセイバーは接敵し、不可視の武器を振るった。
ランサーは自らの魔槍を盾代わりにしてセイバーの攻撃を凌ぐと、その反動を利用して大きく飛び退いた。縮んでしまった間合いを拡げて仕切り直す――筈だったが、その思惑をセイバーは完璧に読み切っていた。
ランサーの着地点を予測し、そこへ先回りする。本来なら届く筈のない距離が、魔力の偏向放出による爆発的な加速で瞬時にゼロへ近づいてゆく。そして、叩き込まれる冷酷無比な斬撃は、不安定な体勢のランサーを直撃した。
「うおおッ!?」
攻撃は凌いだ。
が、その勢いや衝撃までは殺しきれずに、ランサーが地に転がる。
「ふん……。他愛もない。大口を叩くから、どれほどの腕かと思いきや……」
と、セイバーは見下すような眼差しをランサーに向ける。
「手が痺れるほどの衝撃とはな……。へっ。可愛い顔して、なかなかやるじゃねぇか。いや、正直言って、驚いたぜ。……なるほど、サーヴァント最優のクラスというのはダテじゃないらしい」
ランサーは悪びれた様子も見せずに立ち上がると、ぞくりとするような笑みを浮かべた。
「こうなりゃ、本気で行くしかないようだ」
そう言いつつ、ランサーは赤い魔槍を構えた。
途端に、辺りに禍々しい殺気が満ちてゆく。
「我が必殺の一撃を、その身で受けるがいい……。食らえ、セイバー!!」
「なに……!?」
「――刺し穿つ死棘の槍!――」
真名の解放と共に、魔槍が突き出される。
その鋭い刺突を迎撃するべく、セイバーは不可視の剣を叩きつけた。
が、できなかった。
赤き魔槍はセイバーの剣筋を躱わすような不可解な軌跡を描いて、その穂先をセイバーの胸に潜り込ませていたのだ。
そこに、魔槍の魔槍たる所以がある。
因果反転――すなわち原因の前に結果を先取りすることこそ、魔槍ゲイボルクの特徴の一つである。『既に心臓に命中している』という事実を作り出してから槍を放つため、回避も迎撃も不可能となり、百パーセント確実に攻撃が当たるのだ。
その不可避の攻撃がセイバーに命中する瞬間を直視して、イリヤスフィールの顔から血の気が引いた。
「セイバーっ!」
叫んで駆け出そうとしたイリヤスフィールを制したのは、他ならぬセイバーだった。左手を上げてイリヤスフィールを押し止め、苦悶の表情のままランサーに正対する。
「くっ……」
苦しげに胸を押さえながらも、不可視の剣を構える体勢を崩さない。ゲイボルクの直撃を食らってもなお、セイバーは戦意を失っていなかったのだ。
その様子を見ていたランサーの顔に驚愕の色が浮かぶ。
「馬鹿な……! オレのゲイボルクを躱わしたというのか!?」
「ゲイボルク、だと!? 貴方の真名は、もしや――」
ランサーの真名を察したセイバーの表情が一変する。
「ちっ、喋りすぎたか……」
忌々しげに舌打ちすると、ランサーは槍を引いた。
「ここは一旦退かせてもらうぜ。マスターからも撤退するよう命令がきているんでね」
「待て――」
「そうするといいわ」
追撃に移ろうとするセイバーを遮って、イリヤスフィールが口を開いた。
「お互いに万全ではないようだし。機会を改められるなら、それに越したことはないもの」
「マスター!?」
「へへっ、話のわかる嬢ちゃんで助かる。マスターの言うことを聞かないと、拗ねちまったら、あとで機嫌を取るのが大変なんでね。ま、生きていれば、また戦う機会も来るだろうさ。じゃあな!」
そう言うと、爽やかな笑みを残して、ランサーは塀を飛び越えていった。
「なぜ見逃したのです、マスター?」
なじるような口振りのセイバーに、イリヤスフィールは射抜くような視線を向けた。
「セイバー。わたしの目は節穴じゃないわ。ラインを通じて、貴女の状態は把握している。あのランサーの槍――ゲイボルクの呪いは強力よ。本来ならば、確実に心臓を貫かれ、死を免れ得ない必殺の呪い。それに耐えたことは賞賛に値するけど、受けた傷はまだ回復していないでしょう? 確かに、セイバーが七騎のサーヴァント中最優であることは認める。けれど、不完全な状態で勝てるほど、他のサーヴァントたちも甘くはない。急いては事をし損じる。焦らないで、セイバー。勝ち残りたいのなら、尚のこと、ね」
イリヤスフィールの論旨は明瞭で、セイバーは反論する言葉を持たなかった。
唇を噛んで俯き、己の不明を恥じる。
「――申し訳ありません、マスター」
「気に病むことはないわ、セイバー。マスターとサーヴァントは運命共同体。お互いの足りないところを補い合うというのも、大事なことでしょう?」
「マスターの言うとおりです。此度の戦闘は、よい教訓になりました。それはそれとして、近くに別のサーヴァントが来ています」
「別のサーヴァント……? マスターも一緒なのかしら?」
「はい、おそらく。……どうしますか、マスター?」
「そうね。向こうが戦う気でいるなら、相手をするしかないだろうけど。そうでないなら、お茶の一杯くらいは出してあげてもいいかな」
「はぁ……」
思いも寄らないイリヤスフィールの返答に、セイバーは目を瞬かせた。
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