第1話 予兆
夜風がカタカタと窓を揺らす。
そんな微かな物音で、衛宮イリヤスフィールは目を覚ました。
枕元の置き時計は、午前四時半過ぎを示している。まだ起床するには早すぎる時間だ。
けれども、イリヤスフィールはもう一度眠りに就く気にはなれなかった。
妙に感覚が冴え冴えとしていて、眠気などは何処かへ飛んでいってしまっていた。
イリヤスフィールはベッドから抜け出し、パジャマの上からカーディガンを羽織ると、カーテンをそっと開けて窓の外を見上げた。まだ暗い空に青白い月が浮かんでいた。それは、まるで空にポッカリと開いた穴のようにも見えて、イリヤスフィールの心を掻き乱した。
「――――――っ」
窓越しに感じる冷気に身が震える。冬でも比較的温暖な気候の冬木市において、この寒さは例年には無いものだった。
イリヤスフィールは少しでも部屋を暖めようと、電気ストーブのスイッチを入れてから、ベッドに腰を下ろす。
ふと顔を上げると、カーテンの隙間から差し込む月光に照らされた自身の姿が、壁際に置いた姿見の中に浮かんでいた。
イリヤスフィールは、しばし鏡の中の自分と見つめ合った。
故郷を遠く離れてこの国に住み着いてから、もう十年になる。曇り一つ無い白い肌、朱い瞳、銀の髪――そんな十年前から変わることのない構成要素と、少女から大人の女性へと移ろいゆく途上にある自分の身体。時に『変わったね』と言われ、時に『変わらないね』と言われる。そのどちらが自分の本質なのか、イリヤスフィール自身にも見定められずにいた。
その答えを探し求めるかのように、イリヤスフィールは鏡の中を食い入るように見つめた。が、鏡の中の自分も同じように真剣な表情で見つめ返してくるだけ。答えなど返ってくる筈もない。
「我々は何処へ行くのか。我々は何者なのか……」
いつかどこかで聞いた台詞をそっと呟き、天井を見上げる。
人ならば、人として。
動物ならば、動物として。
だが、人ならぬモノとして生まれついた自分は、これから先をどうやって生きていけばいいのだろうか。それは、もう何年も前からイリヤスフィールが考え続けてきた疑問に他ならない。
生まれる前から期待されていた役割から解き放たれ、イリヤスフィールは自由を得た。
けれど、その先に広がる『可能性』という名の無辺の荒野の歩き方は、誰も教えてはくれなかった。あの優しかった切嗣でさえも――。
果たして、自分は人として生きていけるのか?
容易に答えの出ない問いを胸の奥に抱えたまま、イリヤスフィールはベッドに身体を預けた。
◇
午前六時すぎ。
朝食の用意を弟に任せて、イリヤスフィールは縁側でぼんやりと明けゆく空を眺めていた。まだ太陽は顔を出しておらず、少し肌寒い。けれども、光が満ちる前の静かなひとときが、イリヤスフィールは好きだった。
「ん――――」
澄み切った空気を胸一杯に吸い込んで、イリヤスフィールは立ち上がる。
居間の奥にある台所では、弟の士郎が朝食の準備に勤しんでいた。
「士郎、もう用意はできた?」
台所に向かってイリヤスフィールが声を掛けると、士郎がひょいと振り向いて笑った。
「もう少しだよ。あとは鮭を焼くだけだ。そろそろ藤ねぇや桜も来る頃だろうから、食器の用意を頼むよ、姉さん」
「オーケー♪」
他愛のない会話を交わしつつ、士郎は魚焼きグリルに鮭の切り身を並べ、イリヤスフィールは食器棚から四人分の茶碗や皿、箸を取り出す。
現在、この屋敷に住んでいるのは、イリヤスフィールと士郎の姉弟二人だけである。
とはいうものの、名前がまるで違うことから容易に想像できるように、二人の間に血縁関係は無い。けれど、様々な事情が複雑に絡み合った結果として、十年前から二人は姉弟として一つ屋根の下で暮らしてきた。
時折、後見役を自認する藤村大河が様子を見に訪れる以外は、至って平穏に日々が過ぎてゆく。そんな日常に変化が生じたのは、今から一年ほど前のことだった。
弓道部の部活中に、士郎が怪我をした。士郎の同級生であり、友人であり、弓道におけるライバルでもあった間桐慎二との些細な諍いが予想外の発展をしてしまい、左腕に全治二週間の怪我を負うことになったのだ。
部員同士の私闘――というか、慎二のほぼ一方的な暴力行為だった――という前代未聞の不祥事に、穂群原学園は大いに揺れた。
最終的に、慎二に対して理事会から自主退部勧告が出され、彼は弓道部を辞めた。後になって囁かれた噂によれば、断れば停学処分が待っていたとも言うが定かではない。いずれにせよ、一方の当事者である士郎が殆どお咎めなしで済んだのとは対照的だった。
結果として、事件をきっかけに士郎と慎二の間には修復不能な亀裂が入り、友人ともライバルとも呼ぶことのできない冷え切った関係へと変わっていってしまったことは、不幸と言うしかない。
ところが、その事件が新たな人物を衛宮家に呼び込むことになった。
自らの兄の振る舞いに良心の呵責を感じたのだろうか。突然、慎二の妹である間桐桜が、衛宮家を訪れたのだ。
何用かと訝るイリヤスフィールたちに、彼女はある申し出をした。士郎の怪我が回復するまでの間、家事手伝いをするというのである。
当初、イリヤスフィールと士郎は、その申し出を丁寧に断った。そこまでしてもらうほどの大事ではないというのが、二人の共通認識であったからだ。それに何より、当事者でもない、全くの第三者である桜に負うべき責めがあるとはとても思えなかった。
けれども、桜はイリヤスフィールたちの言葉を頑として聞き入れなかった。結局、彼女の強情ぶりに根負けするかっこうで、イリヤスフィールと士郎の姉弟は桜を迎え入れることになったのである。
結論をハッキリ言ってしまうと、桜は大して役に立たなかった。
料理は学校の調理実習で習ったものなら何とか作れるという程度の腕前でしかなく、掃除や洗濯も手際がよいとは言えなかった。それでも、士郎やイリヤスフィールの薫陶の甲斐あって、桜はめきめきと家事の腕を上げ、衛宮家の中で確固たるポジションを築いていった。
そして、今や、朝と夕に大河と共にこの家を訪れ、イリヤスフィールや士郎と一緒に食卓を囲むことは、ここ数ヶ月ほどの――つまりは、士郎の怪我が治った後も相変わらず衛宮家に通い続けた桜の日課であり、同時に衛宮家の日常風景にもなっていた。
「おはようございます!」
元気良い挨拶と共に桜が居間へ駆け込んできた時には、既に朝食の用意はあらかた終わっていた。
「おはよう、桜。今日は、ちょっと遅かったね?」
「すみません。ちょっと寝過ごしちゃいました」
照れ笑いを浮かべ、小さく舌を出す桜。
そんな桜に、士郎が真面目くさった顔を向ける。
「気にすること無いぞ、桜。いつも世話になってるんだから、たまにゆっくりしたくらいじゃ、バチは当たらないさ」
「ありがとうございます、士郎先輩」
「なに、礼を言われるようなことじゃないよ。な、姉さん」
「そうね」と、イリヤスフィールが頷く。
「桜は細かいことを気にしすぎるわ。もっと鷹揚に構えてなさい」
「はい、がんばります!」
そんな朝の穏やかな一コマを突き破るように、溌剌というには大音量過ぎる声が響いた。
「お腹減ったー!!」
声の主は、衛宮姉弟の後見人であり、穂群原学園の英語教師でもある藤村大河だ。
どかどかと騒々しい音を立てながらやって来た大河に、居間にいた三人は思わず苦笑する。が、そんなことは気にも留めずに、大河は当たり前のように食卓の定位置に陣取り、無遠慮に鼻をひくつかせた。
「……今日のメインは、焼鮭?」
「おう。すぐに用意するから、二人とも待っててくれ」
大河と桜に声を掛けて台所に引っ込むと、士郎は人数分のおかずを盆に載せて、器用に運んでくる。それに合わせて、イリヤスフィールが各々の茶碗にご飯をよそう。
「あ、イリヤちゃん、大盛りでね」
「わかってるわよ、大河」
「もう、名前を呼び捨てにしないでって、あれほど言ってるのにぃ……」
「別に良いでしょ? 学校では、ちゃんと藤村先生って呼んであげてるじゃない」
「わかってないなぁ、イリヤちゃんは。そーゆー問題じゃないのよう」
もどかしげに身を捩る大河を不思議な生物でも見るような目で見ながら、士郎はおかずの乗った皿を各人の前に並べていく。
「そういう藤ねぇこそ、もっと年相応の落ち着きを身につけろよな。少しは姉さんや桜を見習ってくれよ」
士郎の言うことはもっともな正論である。
が、大河にそんな理屈が通じる筈もないことは、ここにいる全員が承知していた。
「はいはい。それじゃ、いただきまーす!」
一番最後にやって来たくせに一番最初に食事を始めようとする大河を一瞥して、イリヤスフィールが両手を合わせる。それに倣うように、士郎と桜も手を合わせた。
「いただきます!」
そして、いつもの衛宮家の朝食が始まった。
「士郎」
イリヤスフィールの呼びかけに、士郎が顔を上げる。
「ん?」
「今日はアルバイトの日だったっけ?」
「あぁ、ネコさんとこ」
「帰り、遅くなる?」
「いや、夕飯までには帰ってこられると思うけど」
「それじゃあ、お夕飯はわたしとイリヤ先輩で作りますね」
「お。それじゃ、よろしく頼むな、桜」
「はい、よろしく頼まれちゃいます!」
「おう」
そんなありきたりな日常会話もやがて終わり、弓道部の朝練に出るために士郎たちが登校する時間になる。元々、そのための早起きでもあるのだ。
ちなみに、イリヤスフィールは登校しない。する必要がない。今の時期、三年生は通常授業が無いからだ。しかも、既に進学先が決まっている彼女は、受験真っ直中の級友たちと違って、ほとんど春休みに突入したも同然だった。
「それじゃ、いってきます」
「いってらっしゃい。気をつけてね」
士郎たちを玄関先で見送ってから、イリヤスフィールは台所に戻る。
「さて、と」
やりかけだった食器洗いを再開しようと腕まくりをして、イリヤスフィールは左腕にミミズ腫れのような傷跡ができていることに気が付いた。大きな傷だったが、不思議と痛みは感じられなかった。もし痛みがあったのなら、もっと早くに気付けていた筈だった。
「これは……」
イリヤスフィールには、その傷の正体が何であるのか、おおよその見当が付いていた。
「……再び、始まるのね」
五年前に他界した父の言葉を思い出す。
「アインツベルンとは縁を切ったつもりだったのにな……」
やはり、この身にとっては逃れられない宿命なのだろうか。
イリヤスフィールは無言で自らの腕を見つめ、そこに現れた兆しが示唆する内容にしばし思いを巡らせた。
◇
その夜、士郎が帰宅したのは、夕食時をとっくに過ぎて、大河と桜が家路についた後のことだった。
「ただいま!」
「遅いじゃない、士郎ッ! どこで道草食ってたの――」
小言の一つや二つくらい言わねば気が済まぬとばかりに勢い込んで玄関へ向かったイリヤスフィールは、思いがけない光景を目の当たりにして、言いかけていた言葉を呑み込んだ。
士郎が見知らぬ人間を背負っていたのである。
「……誰、それ?」
「いや、誰かは知らないんだけど、公園で倒れてた」
「…………はぁ」
幾分間の抜けた士郎の返答に、イリヤスフィールは深い溜息を吐いた。
そんなイリヤスフィールの態度を見て、あまりにも説明不足だと悟ったのか、士郎は慌てて言葉を続けた。
「いや、その、ほら、そのまま放っておいたら野垂れ死にしちゃいそうだったからさ。最近、夜寒いだろ。だから、せめて何か食わせてやろうと思ってさ」
士郎の底抜けなお人好しさ加減に軽い頭痛を覚えて、イリヤスフィールは二、三度かぶりを振った。
とはいえ、士郎がお人好しなのは今に始まったことではない。気を取り直して、イリヤスフィールは士郎が連れて帰ってきた人物を観察する。
特定部位の発育具合から考えて、性別は女性。身長は士郎よりも高く、およそ百七十センチメートルといったところか。服装は乱れてはいないものの、裾や袖口が擦り切れてぼろぼろになっている。長い前髪に隠れて判りにくいが、顔の造作は日本人離れした端正さを備えていて、もしかしたら外国人なのかもしれない。だとしたら、旅行途中でトラブルにあったという可能性も考えられるだろう。
けれども、幾つか気になる点もある……。
しばし黙考してから、イリヤスフィールは決断を下した。
「使ってない客間があったでしょ、離れに。そこで休ませてあげましょう。布団とか着替えはわたしが準備するから、士郎は食事の用意。なるべく消化のよいものを作ってあげてね」
「わかった!」
イリヤスフィールの指示に、士郎は嬉しそうに顔を綻ばせる。
やれやれ…と心中で呟きながら、イリヤスフィールは士郎と二人がかりで身元不明の女を別棟の客間へ移動させた。
士郎を台所へ送り出してドアを閉めると、イリヤスフィールはベッドの上に横たえた女へと向き直った。
いつの間に目を覚ましたのか、女もイリヤスフィールをじっと見澄ましていた。
「あなた、普通の人間じゃないわね?」
イリヤスフィールの単刀直入な物言いに驚いたのか、彼女は虚を突かれたように目を見開いて、それから申し訳なさそうに顔を伏せた。
「……どうして、わかったんですか? これまで十年間、誰にも気付かれなかったのに」
「勘、かな?」
「カン、ですか?」
「そうよ。……きっとあなたも『こっち側』の存在だと思うから言っちゃうけど。魔術師なのよね、わたし」
と同時に、女が息を呑む気配があった。
「だから、あなたの身体から、微弱だけども魔力が漏れているのがわかっちゃったの。それで、もしかしたら――と思ったわけ」
「そうだったんですね……。それでは、彼も気付いていたんでしょうか」
「どうかな? たぶん気付いてないと思うけど。士郎も一応は魔術師なんだけど、そういった方面の感受性はあまり鋭くないからね。純粋に、あなたのことが心配だから助けたんだと思うわ。……あの子は、そういう子なの」
「そう、なんですか……」
ポツリと呟くと、女は複雑な表情で閉じたままのドアを見つめた。
しばらく女はそうしていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「……あなたの言うとおり、私は普通の人間ではありません」
「じゃあ、やっぱり魔術師なの?」
「いいえ、違います」
「それじゃあ、一体――」
「私は、第四次聖杯戦争の折に召喚されたサーヴァントなのです」
思いも掛けない告白に、イリヤスフィールは絶句した。
「何それ……!?」
「言葉のままです、魔術師。私は嘘は言っていません」
「でも、第四次聖杯戦争から十年も経っているのよ? それに、マスターはどうしたの?」
「……マスターは、私が殺しました」
「!!」
「詳しい事情は話せませんが、私とて好きこのんで殺したわけではありません。そうせざるを得ない理由があったのだと察していただきたい」
「でも、それなら余計におかしいじゃない。マスターを失ったサーヴァントがどうして現界し続けていられるの?」
イリヤスフィールが疑問を呈すると、女は無言で俯いた。
「…………」
「言えない理由があるのね?」
「はい、申し訳ありません。いずれお話しできる時が来るかもしれませんが、今はまだ言うべきではないと思いますので……」
それっきり女は口を閉ざし、士郎が食事を持ってくるまで一言も喋らなかった。
◇
士郎が用意した雑炊を食べ終えた女を寝かしつけると、イリヤスフィールは居間へ向かった。そこで士郎が待ってくれている筈だった。
襖を開け、居間に踏み込む。その心中は、まるで戦いに赴くかのような緊張感に満ちていた。
「士郎」
単刀直入に切り出すことに決めて、イリヤスフィールは愛する弟の名を呼んだ。
「なんだい、姉さん」
イリヤスフィールの改まった態度に何かただならぬものを感じたのか、士郎が居ずまいを正す。
「これを見て欲しいの」
そう言いつつ、イリヤスフィールはセーターの左袖をまくり上げ、腕に巻いていた包帯を無造作な手つきで取り除いた。
露わになる白い左前腕。そこに走る一筋の傷跡。
「どうしたんだよ、それ……!?」
驚く士郎に、イリヤスフィールは告げた。
「十中八九、令呪の兆しよ」
それだけで士郎には通じた。
「そ、それじゃあ……!?」
言葉にならなかった問いに、イリヤスフィールが頷きを返す。
「えぇ。聖杯戦争が始まろうとしているわ」
「………………」
士郎は無言で唇を噛んだ。
それは無理もない反応だった。士郎が聖杯戦争に複雑な感情を抱いていることは、イリヤスフィールもよくわかっていたから、敢えて端的な表現を選んだ。
「わたし、聖杯戦争に参加するつもりよ」
「姉さん……!?」
「そんな顔をしないで、士郎。わたしだって、別に聖杯が欲しいわけじゃない」
「じゃあ、なんでさ――」
「聖杯戦争と無関係な人が傷つくのがイヤだから、かな……」
はにかむような表情を浮かべるイリヤスフィールに、士郎は目を瞬かせた。
「え……?」
「それに、令呪の兆しが出ているのに聖杯戦争に参加しないなんて、敵前逃亡みたいで格好悪いじゃない?」
「まぁ、確かに、それは言えてるかも……」
「でしょ? 明日の夜、サーヴァントを召喚するわ。士郎も立ち会ってくれるわよね?」
「それが姉さんの為になるのなら、是非もないさ」
躊躇なく答えた士郎を、イリヤスフィールは何よりも心強く感じた。
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